トイレの歴史

以前、社員研修で北九州市の小倉にあるTOTOミュージアムに行きました。

ここには様々なトイレが展示してあったり、トイレの歴史についての資料があったり、TOTOの創業からの思いについての資料があったりその他いろんな展示がされていてなかなか楽しめるミュージアムでした。

今日はそんな展示の中から昔のトイレについて説明されていたものを紹介したいと思います。

 

 

川屋 | 縄文から弥生時代にかけてのトイレ

 

私が子供の頃、おじいちゃんやおばあちゃんたちがトイレのことを「かわや」と言ってました。

田舎の方言なんだろうなと思っていましたが、TOTOミュージアムでこんな展示を見つけました。

画像だと説明文が見えにくので書き出します。

川や湖の上に架け渡した桟橋から用を足していたと考えられます。このような構造のトイレを「川屋」と呼ぶことが、「厠(かわや)」の語源になったという説があります。

この説明文を見て「なるほどっ!」と腑に落ちました。

川屋が厠の語源なんだ、確かに昔はこんな感じだったんだろうなと妙に納得してしまいました。

 

 

樋箱 | 奈良から平安時代の貴族のトイレ

 

同じく説明文です。

貴族の間では「樋箱」と呼ばれるおまる式の便器が使われました。十二単を着て使うのは大変なため、長い裾を掛けるT時型や、鳥居型の支えを設置。女性は着物の中に樋箱を入れて、しゃがみこんで排せつしていました。

これは何かのテレビなどで見たことがあるような気がします。

貴族が着ていた十二単はともて重たいでしょうから、トイレをするのも大変だったでしょうね。

 

 

惣後架(そうごうか) | 江戸時代の長屋のトイレ

 

同じく説明文です。

江戸時代に長屋で生活する人たちは、「惣後架」という汲み取り式の共同で使うトイレを使っていました。たまった排せつ物は肥料になるため商品として扱われ、大家の生計を支えていたといわれています。

私は高校生の時、家から学校に通うのが遠く田舎でバスの少なかったので最寄の駅までバイク通学していたのですが、冬場は雪のためバイクで行けなかったので、駅の近くの木造アパートを借りていました。

そのアパートが共同トイレでした。

江戸時代の長屋の人達も共同トイレを使っていたんですね。

排せつ物が肥料になるのはよく知られていますが、それが大家の収入になっていたのは驚きです。

 

 

このように現代の綺麗で便利なトイレになるまでには様々なトイレがあったんですね。

生物は生きている限り排せつしますので、人類が生まれてからずーっとトイレってあったんですよね。

なんだかそんなことを思わせてくれた面白い展示でした。

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